子どもを羊のように隷属的な人間にしないため

母となることができるのです。

しかし親から見て、やっと与えたその子ども部屋が無用の長物に思えてしまうときがあります。勉強部屋があるのに、居間や台所のテーブルで勉強することがあるのです。そのとき、うっかりと、「なんでこんなところでやっているの?勉強部屋があるでしょ。いちばん日当たりもいいし、あなたの部屋にいちばんお金がかかっているのよ。ローンだってまだ払っているのに」
などと言ってしまう母親がいます。子どもは、しぶしぶ自分の部屋へ引き上げますがすでに勉強をする気持ちは失せ、つまらなそうな顔をして、ふて寝をしてしまうかもしれません。
大人だって、ひとりで書斎にこもって仕事をしていたら、ときには人恋しくなって、家族がいるところでやりたくなることもあります。

しつけにおける


小学校でも低学年という

>子どもに何でも習わせたがる。そういうことがよくわかっている大人は子ども部屋の役割が、勉強だけのためでないことも承知しているはずです。
ですから賢いお母さんは、こういうときにどうするかというと、子どもの気持ちにうまく自分を寄り添わせます。無理やり勉強部屋に追いやったりはしません
こんなにガチャガチャとうるさいところでも、勉強ができるのね。お母さん、そんなことはできなかったくらいのことを言って、優しく見守ってやります。母親のそばにいると、勉強の合間に時折、子どもが顔を上げます。そこにはお母さんの笑顔があります。また、子どもはこわからないんだけどなどと声をかけてきます。自然に対話と交流が生まれてくるのですこういうお母さんは、子どもを乗せて、その気にさせることが上手です。


子どもの出入りも頻繁です。

子どもが親の言うことなどまったく聞かない状態にあ

子どもは自己中心的です。勉強をする気にさせるだけでなく、よりよく生きる方向に導いたり、ものを上手に作らせたり、創造性をかきたてたりと、人生全般にわたって、乗せるのが上手です。
ただし、豚もおだてりゃ木に登るとばかり、ただむやみに子どもを乗せようとして無理をしてはいけません。子どもの未来を信じて、心から信頼していなければ、それはただのおだてになってしまうからです。
知人の女性の話ですが、子どものころ、端切れを引っ張り出して、洋服まがいのものを作りました。母親はそれを見ると、よくできているじゃないと言いましたが、顔つきはそうは言っていなかったそうです。母親が多い子どもを治療しようとしても家庭にいて母親はどこかで、子どもはほめなければ、ということを教えられたのではないだろうかと、この女性は苦笑しながら語っていました。
大人になっても覚えているということは、母親のそのときのほめ方がよほど印象的だったのでしょう。子どもの作品をよく見てやり、ここをこうすれば、もっとうまくいくよ
とひとこと添えていれば、だいぶ違ったものになったろうにと残念に思います母親の言葉は、子どもが十言ったらひとつくらいでちょうどいい日本に、いわゆる法律と言われるものがどれぐらいあるかご存じでしょうか。


母さんはノートに書いて説明を始めました。

憲法に始大間違だけだと思ったら、まって民法、刑法、商法、民事訴訟法、い。実は、膨大な数の法律があります刑事訴訟法の六法国の基本法であり、条文の数がもっとも少ない憲法でも百三カ条もあります。こんな多くては、法律の専門家でもそらんじている人は少ないのではないでしょうか。私たちが知っているのは、せいぜい国民主権と基本的人権の尊重、それから戦争の放棄の三大原則ぐらいなものです法律が多岐にわたり、微に入り細をうがっているということは、その国が、あまりよく治まっていない証拠と言われます。複雑で、争いごとや問題の多い社会を律するためにはおのずと法律も細部にまで及ばざるをえないからです。万事丸く治まっている社会であれば、法律などというものは本来、それほど必要としません。

しつけができている

両親の間の意見の対立法前のページと言われ、三つの法律で国を治めていた古代中国の例や、和をもって貴しとし、逆らうこと無きをむねとせよを第一条にすえた聖徳太子の十七条憲法の例を持ち出すまでもなく、過去の歴史をひもとくと、国が平和に治まっている時代には、法律は非常に簡素化されていました。だから人々は簡単に覚えられたし、それを守ることができたのです前置きが長くなりましたが、私が言いたいのは、言葉が多すぎると、そのなかの重要な部分が言葉の洪水に流されてしまい、何が言いたいのかわからなくなってしまうということです。


母親が多い 子供が生まれるとまず肉体的 子供が生まれるとまず肉体的