伸ばしてつかんだコップを口元に。

子どもの言いなりにならない

苦しい局面になったときに、逃げ特効薬にしか期待を抱けぬ、本当の弱者に育っていくことを知るべきである。
相手の言ってほしくない点に共感し、優しさを示せる生命線であるだろう。真の愛というのは、そこから出発するのではなかろうか。その心情の確立こそが、言ってほしくないことなんかなくそうという方向に本質を転換させていく引き金になる、と私は見ている-これは、人間社会を守る自他ともの幸福を心から願うことのできる、親は、子どもにそう語るまえに、格確立をはかりたい。
母さんは十分にかみしめてほしいのです。

先生からマルがもらえる

子どものわがままには取り合わないここに出てくる

子どものく自らの人相手の立場を思いやることが人格形成に不可欠ある学者が、次のように警告していた。
「自分のことだけしか考えない人間は、教養のない人間である。
けても、教養が身につかない人間である」
たとえ、どれほど教育を受ドキッとした。
自分を犠牲にして他人の利益をはかる、利他の大切さを訴えているのであろう利他といえば、宮沢賢治を思い起こす。梅原猛氏が宮沢を評して、彼の作品の精神性の高さは、二十世紀で最高峰という意味の発言をされていた。その宮沢は、世界に不幸がある限り、我に幸いはなし
と言った。
すごい境地である。この発想は法華経からきているそうであるが、すべての人がこの姿勢に立つことは、きわめて厳しかろう。しかし、あえて宮沢はこの言葉を言ってのけたの
だ。

練習嫌いです。

子どもを見ることのできない教師の見方
厳しかろうと、何であろうと、宮沢は主張しているのであろうかこの境地に立たねば、人間は根底的には救われないと、エゴとの葛藤は、文学を志し、教育を考え、哲学をかじり、政治に関わり、するなど、人生のを考えるときに、必ず
虹のように出てくる。
宗教を志向たとえば利他に生きる人に触れ、彼らの行為を見聞きするとき、感動の思いを起こさぬ人はまずいまい。しかし、自らの問題となったときの対処の仕方、発想の基盤などを冷静に見つめてみると、エゴがとてつもないしぶとさで、心の船底にこびりついていることに気づく。
伸ばしてつかんだコップを口元に。

子どもの思いをほんとに気づいてやらないのですね。

先生から耳を引っ張られもう一人
自己保存欲の底知れぬしぶとさに、自分でびっくりすることも多い。
あえて私がと表現したのは、一過性の傾向を持つことを言いたかったためである。
私も乏しい人生経験ではあるが、人間に関することで、私に無縁なものはないという言葉との巡り合い以降、その視点で三十年あまり人間
を見つめてきたそして、ある結論を得た。それは「人間は自己保存志向がなければ生きられないが、他者を思いやらねば救われない」ということ。すなわち、自己完成と利他を、どう調和し統一し、発展させていくのか。この視点の欠落するところには、根底からの救いはないように思えるのである佐世保に住む、かった。
小学校三年生の北原なおみちゃんの作文まちあい室は、素晴らしこうがいれつ大学病院の待合室。

子供も育たない

子どもを殺してしまうような親だ
口蓋裂の治療で待っていた少女の目は、同じ病名で両親に抱かれてきた赤ちゃんに注がれる。おむつを替えるとき、父親がまえに立つ。母親が、その後ろで素早くおむつを取り替える
人になるだけ見えないようにしているな、とわたしは思いました。わたしの心は、悲しくなりました。でも、この赤ちゃんが好きになりました少女は心の中で、早く幸せになるように、強くなるようにと祈る。
「そしたら学校のお友だちから、ぶたのお口とか、はなぺちゃとか、言われても、泣いてお家に帰ったりしない、強い子になるよおねえちゃんが、そう祈ってあげるからね」
と、心の中で語りかける。はじめて出会った名も知らない他人の不安や悲しみを、ことのように心くばっている。
子どものまわ

母さんが得

わが他方、小学生が幼児の口に砂を詰め込んで、あやめてしまった事件もあった。教育や家庭環境のあり方が、わいわい騒がれる。果ては、人間が本来、性善であるのか性悪であるのかまで論議され、物議をかもす私は思う、悪にも善にもなり得るのが人間存在であると。大切なのは、何が善で何が悪かを規定する人間観、社会観、価値観を、個人レベルで問いなおすことではなかろうか本当の意味での人間的強さと豊かさを、人格として創りあげねば、生き抜けないほどの時代になってきているのだ。