子供にも使命感は育たないといえるでしょう。

勉強の効率は少しも高まらず

生きていこう、そして向上していこうという姿勢には、必ず障害が襲うそこで悩むか悩まないかという、主体の問題が生じてくる。悩み抜いていくか、ほどほどに悩むか、悩まずにいくかである。
悩むことには、それなりに効用はある、と言う人が多いかもしれない。その時々によると考える人もいるだろう。だが少なくとも、悩まねば陶冶はされない。耕されることもなく、刻まれることもない土壌からは、乗り越え克服していく力は生まれない。悩まずに避けていく生き方は、少なくとも王道とは言えず、本質発展にはつながらない。それは、教育というもののとる道ではないということが言えそうだ。
とうや人間は、どうやら悩まずには生きていけないということも言えると思う。ならば、覚悟を決めることだ。悩む以外に進歩がないのなら、嬉々として生き生きと悩むことだと思う。
写真館で子供にも思い出を残しましょう。

子どもの誰もが持っている

この悩みを通して、また成長できるまた強くなれると考えることだ絶えず何のために生きるのかを思索し、自己を鍛えあげ、高めていくこと。この姿勢を強く持つときに、苦を苦と悟り、楽を楽と開きゆくことができるだろう。悩みに打ち負かされず、悩みを見下していけるようになるのだ。自らに襲いくる苦しみに、何一つムダなもの、意味のないものはないと腹をくくろう。
現代にあっては、物があふれ、暑さも寒さもない便利さの中で、その裏側の病理の莫大なツケは、子どもにまわっていく。多くの諸難が子どもたちを待ち受けているのだ。

 

高校時代にアメリカに留学したいと言いだしたとき

強さの中にも
本物の強さを秘めていた家康をはるかにしのぐ子を、日本のそこかしこに育てあげていきたいものである他人を差別する子どもは、人生を堂々と生きられない大人の世界には、言うまでもなく差別がつきまとっている。
アメリカの黒人差別、南アフリカ共和国や、その他の国々の人種差別を非難するのはやさしい。
さまざまな差別意識が渦巻いている。
だが日本社会にもその影は、子どもの世界にも強くかぶさっている。子どもの生活の中で差別を発見したとき、いったいどうすればよいのか。私は、差別の本質をきちんと見分けることが大切であると思うここで気をつけなければならないのが、親のエゴである。
先生自身の力量不足だけが原因なのではなくお父さん
保育園などで早く園に来る子

母親あわてて

自分の子がからむと、眠っていた盲愛がむくむくと目をさまし、公平な判断が下しにくくなる。まず、ここのところを一歩乗り越えることが大事だ。わが子は誰よりもかわいいが、他の子もその子の親にとっては、やはりわが子なのだ。この素朴な真理を、すっきりと腹に飲み込まねばならないそして、できるかぎりの公平さを発揮して見ていくことだ。最初に親がこの戦いに勝たないと、その先はそれこそ始末の悪いものになっていってしまう。筋道を追っていくことができなくなるのだ次の段階の問題は、差別した側の子の意識だ。
意識的に差別の言動をとった場合とがある無意識での言動の中に差別がある場合と無意識での差別には、基本的にはじゅんじゅんと教えてやることであろう。自分がそうされたらどう感じるかを、子どもが持つ意識の根っこまで探りながら、人間の持つ平等
の尊さ、平等価値の大きさを語って聞かせてやろう。

子どもの思いと同じ深さでところが美香ちゃん

さて、意識的にやっている場合、これは厳しい。意識してやっているのだから、それなりの理由と言いわけを持っている。だってあいつは……じゃん誰だってみんな、そう思っているよしょうがないよ当たり前だよ
れる側にそれだけの原因があると、懸命に釈明する。
子どもは、向こうが悪い、差別さここから先が、教育の役割だ。大事な点は、相手の実態があるか
不可避のものであるかを峻別することだ。

努力を怠っているものでしゅんべつ前者であれば、差別するのではなく、本人が気づくように優しく声をかけてやることを教えなくてはいけない。
子供に追い打ちをかけることもやめてください。

学校から帰る道で言い合いをしたそのうちのひ


しかし後者の、不可避のもの-国籍とか、身体的なこととか家庭の事情とか、その子どもの今までの努力ではどうあがいてもどうしようもない事柄をなじり中傷するということは、絶対に許してはいけないこれらのことで相手を傷つけるのは、人間としてもっとも卑劣な行為であり、自分をも腐らせていってしまうということを、断じて子どもに認識させねばならない太宰治は
人間は何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、生きているのではないのかそれでも堪えて、そ知らぬふりをしてと言った。
が、この思いさえ保障されぬ世界には、自由な魂の躍動や、「何か活路を見出してい,という精神的生きがいは生まれない。
差別する側の観点こそが、卑劣きわまりないと知るべきだ。
う」
そこを省みず、そういう点を突いていくという心情は、人間としてもっとも弱く、きたならしい。言ってみれば正々堂々と勝負する場での努力というものを放棄する心理が底辺にあるわけであるしたがって、この悪しき心情を打破してやらないと、子どもは真っ正面から努力することの他に、何かいい方法があると錯覚する。